●山菜にまつわる不思議その1
「辛いことがあっても山に行くと元気になる」
吉野の祖母が言っていたのをこども心に覚えています。その血を受けた母も同じで、山菜採りに行くとまあ〜元気なこと。どんな斜面でもさっさか登ってちゃって、ついていくのがやっとです。目が悪かったはずなのに、わたしより先に発見するし。普段から山に親しんでいる人間に山の神様が力をお与えになるのか。
山限定&春限定の超人化?を見る思いです。
●山菜にまつわる不思議その2
頑張って採ってきた山菜、作業はまだまだ続きます。
つくしならば、はかまを取って水にさらし、ワラビは灰でアク抜き、すかんぽ(イタドリ)は外皮を剥いてやはりアク抜き・・と、ひと手間もふた手間もあって、ようやく食べられる状態に。そこまでしたものを母たちは「おすそ分け」と称して、おおかた隣近所に差し上げてしまう。こどもの頃は一体何をやってんだかと思っていましたが、わたしもこの年齢になって母たちの気持ちがわかるようになりました。頑張ったら頑張っただけ、そして美味しければ美味しいほど、自分らだけで食べるのはもったいなくて、むしろ他の誰かに食べてもらいたくなるんですね。あと、その
作業だけで満たされるものがあるような気がします。本当に不思議です。
●山菜にまつわる不思議その3(今春発見)
そして、最近の発見。
山菜がなんでこんなに特別で、母たち山の女たちをあれほどまでに笑顔にさせ、頑張らせるのか。それは、畑でこしらえたものと違って、
何もしなくても生えてくれるものへの感動と喜びではないかと(正確には山の手入れなどは要るのですが)思ったんです。まさに山の恵みです。
食物を作る苦労を知っているからこそ、春、そこに行けば採れる山菜を、ありがたいと思う気持ちもひとしおで、それによって元気になるーー山の神様の恩恵を受けることができるのではないかと、想像しました。
毎年春に、こどもを連れて吉野に帰っていたのに、この頃はそれも出来ず、もっぱら母が下処理までしてくれた山菜を送ってくれるのを、煮炊きするばかりになりました。
ありがたさと同時に、心がしくっと痛みます。
山からどんどん遠くなるわたしに、年に1度、忘れないよう、迷わないよう、母と山のお達しだと思って、最後のひと手間をかけ、家族と食卓を囲んでいます。