『災難にあう時節にはあうがよく候、死ぬ時節に死ぬがよく候。
これ災難をまぬがるる唯一の妙法にて候』ーー
地震に遭われた方に、良寛さんが送ったと言われる文です。
この文をさらっと読んだだけでは、「災害によくあえだの死ねだの、なんてひどいこと言うんだ」となりそうな。自分が災害の只中にある時、この言葉の真意を即座に理解するなんて、そうできるものではないんじゃないでしょうか。
(解説例)だからこそ、平常から考えておく必要があるというわけで、、、
物理的な備えの面では、ぬかりまくりのわたしですが、こういうことに関しては、ものすごーく、考える。
考えるのが好きだから。
「災害を考える」ということ1つとっても、自分に興味のあること、好きなことしかできなくなってきていることを、実感します。
「にんげん好きなことしか頑張れない」
開き直って言葉にできた時、少し楽になりました。
「好きなこと」は
「性に合うこと」といったほうがいいでしょうか。
好きなことだけ選んで、イヤなことから目を背けるという意味ではないんです。
「災害によくあえ」というのと同様、「好きなことしかできない」とだけ聞けば、「なんて勝手な」と捉えられてしまうでしょうし、おいそれと言えずにいるのですが。。。
先週末、熊本県阿蘇市に行かせてもらいました。車中2泊で現地ではたった2日ですが、被害を受けたお宅の屋根の瓦おろしや、荷物出しを手伝いました。誤解を恐れずに言いますと、なんで行くのかというと、わたしはそういうことをするのが好きだからと答えます(半ばドキドキしながら)。
好きなことしか、できないんです。好きだから、馳せ参じて、させてもらったんです。
今回は「誤解を恐れずに」「思い切って」と冠して書くことばかりですが。。。
災害の報道で「被災された方」と、敬語を使われますよね。ちょっと仰々しい言い方にも思えます。
しかし実際「被災された方」は、みな神々しく見える‥のです。
大きな災害を経験したことが、人をそうさせるのか。
試錬や苦行に耐えるひとが、凡人には神々しく見えるように。
その背には、神や仏の姿を、垣間見ます。
「主よ、わたしが最もくるしい時、足跡は1人分。あなたはそばにいてはくれなかったではないか」
「そうでなはい。ずっとそばにいた。そしてお前が最も苦しい時、わたしはお前をおぶって歩いていたのだ」災害を受けて、、、神や仏は、すぐにはおぶってはくれないと思う
(少なくとも思えそうにない)
でも、そばにいるーーそのことだけは、信じられるようになりました。
大きな悲しみに直面している方に、かける言葉が見つからない。
ただ、黙って、ともにうなだれるしかない。
同時に、手を合わせたくなるほど、人として、まぶしく思う。
目つきに、面構えに、発する言葉に、ハッとさせられる。
阿蘇で一緒にボランティア活動をした方が、家主さんに「地震が起き、まちじゅうで助け合っているこちらの地域のコミュニティの暖かさに、涙が出そうになりました。自分はマンションの隣人のことも知らずに暮らしています」と言われました。
その言葉に対して、家主さんは笑って
「わたしはみなさんの姿に涙が出ますよ。こうして、わざわざ京都から駆けつけてくれる人がいてくれる。いま、胸を開いてこころを見せよと言われたら、わたしのこころは、泣いています」と言われました。
わたしは泣きそうになりましたが、耐えました。
涙は、こころのなかに流そう。家主さんがそうされているように。。。
こういうことをさらっと笑顔でおっしゃるので、ほんま。
かなわん。かなわんのです。
真言は、現場にこそ、出づる。
よく、よく、あえますように。
神よ、仏よ、にんげんよ。
阿蘇は水が豊富 こんこんと水が湧く車帰地区の池