"わたしの手を握っていてください"
遠藤周作さん著「わたしのイエス」という本を、随分前に読んで、うろ覚えなのですが、いまでも思い出す箇所がたくさんあります。
そのなかでも、手を握ることについての話は、ほんまやなあと思います。
遠藤さんが病気で入院されたとき、夜、身体が痛くて痛くて何度もナースコールをしたそうです。いろいろ施してもらっても痛みはとれない。苦しむ遠藤さんに看護師さんが「ではせめて手を握っていますね」と言われ、手を握ってもらうと、痛みがとれたそうなのです。正確には痛みがとれたように感じた(やわらいだ)ということなのでしょうか、遠藤さん自身も「手を握ってもらったくらいで何になる」と思ったのに、ほんとうに痛みがとれたので、びっくりしたと。それで「聖書のなかでイエスが病気を治したというのは、こういうことだったのでは..」と、分析なさってました。
わたしは、こんないい年して恥ずかしいのですが、歯医者が、、怖くて怖くて、ほんとうに怖くて、あきらかに虫歯なのに我慢すること10年、とうとう夜寝られないほど痛くなってしまい、歯医者の扉をたたきました。通いはじめて3ヶ月め、ようやく治療も終わりそうで、ほっとしています。
診察室。薬の匂い。医療器具のカチャという音を聞くだけでもう全身総毛立つほど恐ろしい。注射針など見た瞬間に逃げ出してしまいたくなるので、出来る限り何も見ないまま、診察台にあがってすぐぎゅっと目をつぶります。恐ろしい。恐ろしい。そんなわたしに、注射を打つまえに、かならず医師や衛生士さんが手を握ってくれます。遠藤周作さんの追体験ーー 暗闇のなかで、手から伝わる人のぬくもりが、唯一の救いに感じます(おおげさですがほんとうに)やがて手は離されるのですが、離されたあとも、その温かさを覚えて出来るだけ消えないようにと願いながら、なんとか恐怖に耐えぬくことができるのです。
「私のイエス」を読まなかったら、耐えられたかどうか。
おおげさですが、ほんとうに。
虫歯でこんなにつらいのですから、
いわんやもっと過酷な肉体的苦痛をや。
だから、わたしは、必要とされるとき、
その方の手を握ることにしています。
ドキュメンタリー映画「結い魂」に、戦争中、満州で幼子を亡くした女性が登場します。引き揚げ時、凍てつくような寒さ、食料もなく、薬もない。どんどん衰弱する子をみて、看護師さんが『お母さん、この子はもう助からないから、ずっと抱いてやっててください』と言われて、ずっと抱いていたそうです。
助からないとわかったら、ずっと抱きしめてーー
もし自分が死にまみえたとき、誰かの腕のなかにおれたら、死への恐怖や痛みにすこしは耐えることができるのではないかーー虫歯の治療をしてもらっているあいだ、そんなことを考え、これくらい、これくらいと、耐えています。
手を握る。身体に触れる。
それは、誰かとつながっていることの確認であり、承認でもある。
吉田憲司さん著「文化の『発見』」という本の、後半のほうに"
「触れ合い」”という言葉があり、それが目に飛び込んできて、はっとしました。
触れ合い。触れ合い。頭の中で、しっかり漢字で、描きました。
「ふれあい」ではなく「触れ合い」と、
しっかり書きたいと思う場面が多いこのごろです。