12月29日付け47NEWS「ちょっとだけ47行政ジャーナル」寄稿記事の、
いわき市在住の若い方の語ることばを何度も読みました。
以下のリンク先の文章です
ぜひお読みいただきたく紹介させてもらいます。
【寄稿】ふくしまはいま、どんな状況なのか―若手世代が内側から見つめて
福島県いわき市民・伊藤江梨さん
"・ふくしま会議2012
・福島を語るという傲慢
・踏み荒らされるふくしま、排他的になるふくしま
・変わらないふくしま、変わらない市民
・歩き始めるふくしま"
どの章のどのくだりも、
わたしが福島県に3日間、浜通り、中通り、会津と
訪ねたなかで受け取ったことと重なりました。
「福島を語るという傲慢」
その通りです。わたしなどは完全に固まってしまった。
「傲慢」に陥りたくない。
ましてネットでさも分かったふうに言うなんて。ああでも。
ずっと悶々と考えて、この記事に出会えて、ありがたかった。
あまりにその通りなので。
それでも、なお、この記事を紹介することさえ
とがめる気がして、1日悩みました。
今年最後の日の朝がきて、固まっているだけではあかんやろ、と
ひとりでも多くの方に読んでもらいたいのと、
あと、これだけは言おうと思いました。
福島県の「いま」は、日本の、すべてのまちの「いま」だということ。
わたしはいま、背筋がぞっとする危機を感じます。
どうしよう、どうしようと、おそれ震えます。
"福島県に暮らす20~40代の有志が集まった「ふくしま会議青年部会」で議論した際、若者たちに共通していた認識は「福島には未だに多くの問題が残っているが、どれも震災が起こったから生じた問題ではない。元々あった問題が震災を機に一気に噴出しているだけだ」ということだった。"
非常時には「普段」が問われるーーこの間ずっと思っていたこと。
普段出来ないことは、非常時にはもっと出来ないのだと。
「ふくしま会議2012」は、先日のひまわり感謝祭でも紹介されていました
「ふくしまのいま」を、伊藤さんは以下のことばで結ばれます:
"県外の人に会うと「福島県民は私たちに何をしてほしいのか言ってほしい!」と迫られることがある。私の答えは「何をしてもらうのでもなく、自分たちの手でやる」ということだ。県外には福島の問題をあっという間に解決するスキルを持った人たちがたくさんいるのかもしれないが、それは必ずしも良い結果を生んでいるとは思わないし、長い目で見て福島にとって良いことだとは思わない。遅くても、なかなか変わらなくても、自分たち自身の手で。それが、即効性のある発展を求めて作られた原発によって傷ついた福島の、希望の種だと思う。 "
これもまた、日本のいま、そのままと思いました。
希望の種が芽吹くまで、長い長い視点と、
これまでのやりかたに捕われない構えが、必要です。
そして何より「分断」に陥らないように、
必死で互いを思いつづけることが必要です。
2012年のおわりに、希望をふりしぼって。
12月17日夕方 車窓からみた猪苗代町の雪景色