京都新聞夕刊に「現代のことば」というリレーコラムがあり、楽しみに読んでいます。その、最近掲載されたものから、切り抜いて、手帳に挟んで持ち歩き、何度も読み返したり人に見せたりしている、2つのコラムがあります。読み返したり見せたりするうち、出来ればさらに一人でも二人でもシェアさせてもらいたいと思い立ち、友人を介し厚かましく著者さんにお願いしたところ、快諾下さいまして、ブログ記事としてご紹介出来ることになりました。
コラム主は、
「ぼくは猟師になった」著者で猟師の千松信也さん、現代アラブ文学研究者の
岡真理さんです。お二方、そしてつないでくれた
山下真己実さん、
酒井安紀子さん、ありがとうございます。
以下、少し長くなりますが、全文を転載いたします。:
●「原発事故から思うこと」/千松信也(せんまつしんや・猟師)
(2011年4月22日京都新聞夕刊「現代のことば」より転載) 東日本に甚大な被害をもらたした大震災から1ヶ月半、今も原子力発電所の事故は収束する兆しはありません。現場では現地採用の東電社員や下請けの作業員、消防士、自衛官が被ばくしながらの過酷な作業に従事しており、周囲の住民は住み慣れた土地を離れて避難を余儀なくされています。
今回の事故で考えさせられたのは、福島県にある原発が、東北地方の人たちのためではなく、東京を中心とした首都圏の電力の大量消費を支えるためのものだったということ。これは京都に暮らす私たちにも当てはまる構図で、関西電力の原発は全て福井県に設置されています。
平常時でも微量の放射能を排出する原発を地方が受け入れる理由は、絶対に安全だという説明のもと、多額の交付金や地元での就職先が確保されるといった利点があるからです。また、福井県知事が事故直後に述べていたように都市部の生活を自分たちが支えているという自負もあったことでしょう。
このような都市と地方の関係は、他でもよく見られます。例えば、産業廃棄物処理場。町長が処理場の誘致を決定し、住民が反対、そこには政治家・関連企業の利権も絡んで…というのは聞き慣れた話です。水力発電のためのダム建設によって、住み慣れた村がダムの底に沈み、村ごと移住を強いられた人々も多くいます。そこでは、山間部の人々の伝統的な生活や習俗も多くが失われ、渓流沿いの貴重な生態系・植物群も破壊されました。また、今回の震災で活躍した日米軍に関しても、沖縄に集中する米軍基地の移転先として手を挙げる自治体は皆無です。
こういった関係を、「地方も十分に見返りを得ているではないか」と正当化する向きもありますが、いわゆる「迷惑施設」を受け入れないと地方の経済が回らないような社会の仕組み自体を考え直す必要があるように思います。地方で働くことができ、医療・福祉などのインフラが整備されていれば、誰もそのような施設を引き受けようとは思わないでしょう。
今回の事故を受け、日本のエネルギー政策見直しの動きが活発化しています。その多くは、「原発から自然エネルギーへの転換を」というものですが、一部には自分たちの電力は自分たちの土地で引き受けようと、「東京湾にも原発を」という意見も出ています。電力会社の責任は大変重大ですが、その電力を享受してきた都市部の住民もまずはその責任を取る必要があるという点では大変考えさせれる意見です。
都会に住んで山と関係ない暮らしをしながら、「クマを守れ」「野生動物は殺すな」というのは説得力がないように、地方の負担が前提の都市生活を問い直さないところでの反原発の議論は、「都市生活まで悪影響が出るなら原発はいらない」というふうに聞こえかねません。
なお、福島を始め原発建設地では、早くからその危険性を認識し、地道に反対されてこられた方々が多数おられます。それらの方々には最大限の敬意を払いたいと同時にその訴えに十分応えてこれなかった自分自身の責任を痛感します。
●「山羊と原爆」/岡真理(おかまり・京都大学教授・現代アラブ文学)
2011年5月16日京都新聞夕刊「現代のことば」より転載 1928(昭和3)年、富山のさる旧家に男児が誕生した。父親は帝国陸軍の将校。待望の長男だった。だが、赤ん坊は衰弱しており、生き永らえそうに見えなかった。父親は下男に赤ん坊を埋めるように命じた。下男は息のある赤ん坊を埋めるにも忍びなく、生きている間だけでもと、山羊の乳をやった。この乳が赤ん坊の命をつないだ。
瀕死状態で生まれたのが嘘のように腕白な少年に成長した長男は、父親と同じ道を歩むべく、広島の陸軍幼年学校に入学した。皇国の大義を純粋に信じていた。
1945(昭和20)年8月、幼年学校を卒業して、どこかの街で任官を待っていたとき、日本降伏の噂が伝わった。彼は同志とともに、国民に徹底抗戦を呼びかけるビラを刷り、飛行機で空から撒くことを画策するが、上官に見つかって営倉に入れられる。営倉から出されたとき、部隊はすでに解散していた。
除隊後、彼が向かったのは郷里でなく広島だった。彼にとって第二の故郷であるその街が新型爆弾で壊滅したと聞いたからだ。当時の市内は民間人立ち入り禁止だったが、軍関係者でもあった彼が街に入るのは難しくはなかった。変わり果てた街を、彼は何日も彷徨い続けたという。
敗戦後、「アジアの解放」が帝国による侵略に過ぎなかったことを知り、彼は共産主義者になって、レッドパージの時代、地下生活を送る。やがて業界紙の記者となり、結婚したのは30を過ぎてからだった。子どもも生まれ、幸せな結婚生活も束の間、1963年、彼は突然、肺癌を発症、余命半年と宣告され、その3ヶ月後に亡くなった。2歳半の娘を遺して。35歳だった。これが、私の父について知るすべてである。
自分がなぜ癌になったのかも、父は知らなかっただろう。当時はまだ「入市被曝」などという言葉も存在しなかった。だが、あの夏、17歳の彼は、残留放射能の中をたしかに長時間、彷徨ったのだ。母校は爆心地のすぐ近くだった。学校にいた1学年下の後輩たちはみな、原爆で亡くなったという。廃墟となった街を彷徨いながら彼は、わずかな偶然で自分が免れた運命がいかなるものであったかを焦土の中で幻視していたのだと思う。
このとき、彼の体内で時限爆弾が仕掛けられた(放射能による晩発性障害、すなわち「ただちに健康に害があるわけではない」というのは、こういうことだ)。あのとき広島に行きさえしなければ、父が癌で死ぬこともなかった。しかし、「もし」と言うなら、小さな命を憐れんだ下男が赤ん坊に山羊の乳を含ませてくれなかったら、彼の人生そのものがなかったはずだ。父の35年間という人生は、一人の心根の優しい人間と山羊の乳が与えてくれた贈り物だ。1年早く生まれていれば、南洋に送られ、戦死していただろう。1年遅ければ、原爆で死んでいた。1年前でも後でもなく、あの年に父が生まれ、そして山羊の乳と、放射能の晩発性障害の発症までの時差のおかげで、今、私という人間が存在している。